武陵桃源 (ぶりょう とうげん)
『人々が平和に暮らす 理想郷。』
その晩泊まった宿には 新婚だという若い息子夫婦が 両親を手伝っていた。
新婚の2人には どんな人も目に入らないらしい。
家業を営みながらも 厨房の夫と配膳役の妻は ときおり 微笑み合い
言葉を交わしたりして どこまでも睦まじい。
若妻は 可愛い人で 普段の悟浄なら必ず声をかけるのだろうが、
その悟浄もそれをひかえている。
当たり前のような幸せや 男と女が望む生活には
縁が薄い者達ばかりのせいだろう。
その小さな幸せを 壊すことがない様にと 気遣うだけの優しさは持っていた。
いつものように 新聞を読んで食後のお茶を飲んでいた三蔵は、
の視線が その夫婦から離れないことに気付いていた。
その瞳に浮かぶモノが何なのか 気にはなるが、
ここでそれを問いかけても が答える事は無いだろう。
自分たち4人の男と違って は女性らしい思いで その夫婦を見ていることぐらい
三蔵にも分かる。
自分の考えがある所に行き当たると 苦い思いが胸に湧き
それ以上そこには居られなくなって冷めたお茶を飲み干し
新聞をたたむと立ち上がって 部屋へと戻ることにした。
隣に座るもそれを見て 食器をまとめると「じゃあ、お先にね。」と
3人に声をかけて 三蔵の後に従った。
階段に2人の姿を見送った2人の大人は 顔を見合わせる。
「やっぱ 居たたまれねぇよなぁ。
三ちゃんには 一生かなえてやれそうもねぇことだし・・・・。」
悟浄は 煙草に火をつけながら 八戒を見て言った。
「そうですね、あれでも 最高僧ですからね。
当然のように 戒律を破っていても 公に結婚という形は取れませんから・・・・
でも それはも分かっていることだと思いますよ。
だから 三蔵の考えとは違う事を見ていたのだと思いますが・・・・」
階段に視線を向けて 八戒は悟浄に答えた。
先に今夜の部屋に戻った三蔵を追って も部屋に入る。
三蔵は 窓を開けて ドアに背をむけ 煙草を吸っていた。
は 三蔵の機嫌がいつもより悪いことに ちゃんと気が付いていた。
それが自分の態度でという事も・・・・
だが 今は そのことで 三蔵と話をしたくなかった。
今 それを言っても 三蔵を困らせるだけだと は自覚していたし
任務の途中で そんな事を言い出せば あきれられてしまうことも分かっていた。
好きな人と結婚する その幸せも いいだろうと思うが、
三蔵が 『三蔵』でいる限り それはできない。
もそれは理解している。
三蔵は 男として それほど器用ではない、だから 以外の女性に
手を出すとか 愛するときには と別れるだろうという事は 想像できる。
その時に 公に認められている結婚という形が
どれほど頼りになるというのだろう・・・・
何も役には立たないと はそう考えていた。
僧としての戒律でさえ 三蔵には あって無きがごとしなのだから・・・・
そんなものに 縛られるわけが無い。
が見ていたのは それとは違うものだった。
あの若奥さんは 目立たないが 妊娠していた。
愛している男の子供を 自分の身の内に宿すということは
女性ならではの特権だ。
天界では 極端に出生率が悪い。
長い長い春があるのと同じで、人も死なないからだ。
死なないから 子孫を残したいという考え事態が 希薄だ。
それは細胞も同様らしい。
天界に住む女性は なかなか妊娠しづらいというのが 一般的だ。
は その事を考えていたのだった。
いつか遠い未来に 三蔵の命が燃え尽きて をおいて逝ってしまっても、
2人の間に子供がいれば がひとり残される事は無い。
その子の家族と共に 三蔵を思い出すことが出来る。
三蔵に先立たれる の寂しさを 埋めてくれるかもしれない。
ただ 今はその時ではない。
三蔵達は 命をかけている任務に就いているのだから そんなのん気なこと言えば
三蔵に呆れられるか 困らせるだけだと は思っていた。
この話は 無事に長安に帰ってからでも遅くは無いだろう・・・・
授かるかどうかは分からないが、それは幸せな願いには違いない。
部屋に備え付けの鏡に向かって 装身具を外していたの後ろに
三蔵が立って 鏡の中のに話しかけた。
「、俺は 三蔵法師だ。」
そのひと言に はやっぱり・・・と思った。
感のいい三蔵のことだ が若奥さんを目で追っていたのを
違う意味で取ったのだろうが、否定の言葉を言うのがためらわれて
確認という形に変えたのだ。
この人は まわりの人間の心の傷や痛みに聡い。
「三蔵、駄目押しですか?
私が見ていたのは 違うことです。
あの奥さんは 妊娠してらして 赤ちゃんが無事に授かるといいと思いながら
見ていたにすぎませんよ。
気をまわしすぎです。」
鏡の中の不機嫌そうな顔に 微笑みかける。
「そうか。」と返事をして 鏡の枠から三蔵が出て行った。
元の窓際に立って 背中を向けて手に煙草を 燻らせている。
は その背中に そっと寄り添った。
「やっぱり 不安か?」
背中越しに問う声が響いてきた。
「無いと言えば 嘘になります。
明日の命さえ 確証がないのですもの。
だから 夢を見てもかまいませんか?」
「夢か、どんなやつだ?」
は 両手を三蔵の背中に添わせた。
「この旅が終わったら 悟空と3人で暮らす夢です。
もし 願いがかなうならば 小さい命を授かって この胸に抱いてみたいのです。
悟空が 喜んで子守をしてくれるでしょう。
三蔵の帰りを待ってご飯を食べて幸せで穏やかでにぎやかな時を過ごす夢。」
の夢を聞きながら 三蔵は紫煙を吐いた。
「にぎやか? 五月蝿いの間違いだろう。
だが・・・・・俺の夢も同じということに しておけ。」
手にした煙草を 灰皿で消して、のほうに向き直ると
腕の中にその身体を抱きこんだ。
「他の夢を 考えるなんざ めんどくせぇからな。
と同じなら 楽でいい。」
髪に口付けを落としながら 三蔵は 言葉をつむいだ。
「はい、では 2人の夢は 私がお預かりいたします。
かなう日を夢見て・・・・・。」
微笑んだそのの唇に 三蔵の唇が 落とされた。
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